昭和四十七年七月七日 朝の御理解


x御理解第六十八節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修業じゃ。如何に有り難そうに心経や大祓を上げても、心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃ。柏手も無理に大きな音をさせるには及ばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節をつけたりせんでも人にものを言うとおりに拝め。」


 神参りをするに雨が降るから風が吹くから、えらいと思うてはならぬとゆう事は、信心には一生懸命のものがなからなければならないとゆう事ですね。一生懸命とゆうのは、ひとところに命をかけるとゆう事。その命をかけるとゆう事が一生懸命。雨が降るから風が吹くから、えらいと思うてはならね。そうゆう言うならば命を掛けたと言うか、一生懸命のものがあれば雨が降るから風が吹くから、えらいと思う心が段々なくなってくる。それが、又有難うなってくる。その辛抱こそ身に徳を受ける修業と。
 私は、今朝、皆さんがこうやって、朝の御祈念に一生懸命で参って見えられる。今、夏期信行期間ですから、又、それこそ一時には、もう本当にきちっと皆さんが、やっぱりお参りになる。福岡支部の皆さん、久留米支部の皆さん、大分支部の皆さん、まあここの近所の方達は言うに更なり。もう本当にとてもとても一生懸命がなからなければ出来る事じゃないと思います。
 昨日福岡支部や大分支部の方なんかは、ゆうべ遅う、もう十時頃もあったんじゃないでしょうか。それに朝はもうちゃんとして、こうしてみえておられる。その事をね、私、御神前で思わせて頂きよりましたら、それこそ嬉しいやら悲しいやら、もう涙がこぼれてしようがなかった。その嬉しいやら悲しいやらとゆう事は、どうゆう事でしょうか。厳しい事だなあとゆう事も中には入っているんですよね。信心ちゃ厳しい事だなあ、兎に角、何なら、そげん福岡辺りやら大分辺りの遠い所から、しかも朝は四時頃から、しかも一応帰って、又一時には出て来なならん。何か会合があると又三回も出て来んならんといったようなですね信心。これは一寸無理無体な感じがするけれども、それをやってのけておられる皆さんのね、事を、私は今日思わせてもらいよったら、もうそれこそ嬉しいやら悲しいやら、まあ今申します、その、何と信心て厳しい事であろうかとゆうような思いで涙がこぼれた。
 そしたら御心眼にね、田中角栄と頂いた。今度の総理大臣の名前です。田とゆう字を楷書で書いてご覧なさい。もう田でも中でも几帳面なきちっとした四角い字になってしまいますね。角栄、これはもうきちっとしたおかげ、きちっと栄える。もう間違いないようにおかげを受けるとゆう事でしょう。そうゆう信心が続けられる限り、私はもう本当に今言うように、嬉しいやら悲しいやらとゆう、その中にね、本当に信心ちゃ厳しいなあ、雨が降るから風が吹くからと、ここではおっしゃておられるが、本当に雨が降るから風が吹くから、とゆう事はもう一生懸命だとゆう事だと、今日は思わせてもらった。しかも、その一生懸命とゆうのは、ひとつの所に命をかけるとゆう事だと、皆さんの場合、もう合楽に命を掛けての御信心が出来ておるとゆう事です。
 昨日からずっと体の調子がよくない。おかゆさんばっかり頂きよる。それに昨夜もう十時頃だったでしょうか、休ませて頂いとりましたら、久富繁雄さんの、御心眼だろうかお夢だろうか、もう大写しに、私の目の前に、こんなに大きく頂いたと思ったら、繁雄さんが見えとる。私はもうびっくり致しました。もう今頂いたら事実そこにおられる。とゆうのは、五日の日も壮年?会でしたけれども、みえませんでした。昨日の朝もみえませんでした。昨日の一時の御祈念にもみえませんでした。これはどうかあんなさるのに違いないと思うておった。そしたらやっぱり胃が痛んだ。私もやっぱり胃が痛んでおる。例えば牛蒡掘りをなさっておられる時に、足がどうも痛むと。あいた、これは親先生が足が痛みよんなさるぞと、言うてから仕事着を着替えてお参りに出てみえたといったような事があったです。そんな事は以前ちょいちょいあった事ですけれども。どうゆうような事柄が、そうゆうような言うなら不思議な事を呼ぶのであろうか。私は今日の、心に真がなければ神に嘘を言うも同然じゃと。信心には今申します、それこそきちっとした節度のある信心をさせてもらうとゆう事と同時にです、心に真がなからねばならんとゆう事です。所謂几帳面な田中角栄と、それにそんなら心に真がなければならない。
 そしたらね、三木武夫と頂きました。この人は私が一番好きな大臣なんです。今日は大臣の名前ばかりで、御理解を頂きました。どうゆうそんなら御理解頂くだろうかと思うたら、この六十八節でございましたから、田中角栄、三木武夫とゆう事で、今日は御理解皆さんに聞いて頂いておる訳であります。本当に信心とは厳しい、何事でも稽古事とゆうのは厳しいものなんです。ひとつの事を成就しようと、本当に、これは何の道でもそうなんです。
 例えば芸者さん達がですね、三味線の稽古をするでも、それは大変な修業がいるのです。それは側じゃ見ちゃおられん位なんです。覚えの悪い芸者さんなんか、もうここの膝が青じんでしまうです。師匠さんが前の方でここを叩くのです。チントンシャンと言って叩きますから、もう力が入ってくるから、ここが青じんでくるのです。まあ言うなら、芸者さんですらと言うちゃおかしいですけれども、例えばそうゆう芸を身に付けるとゆう事だけでも、やはり厳しいものなんです、修業とゆう事は。
 だから信心に於いておやとゆう事になりますけれども、私は合楽の場合、本当に、おそらくね、沢山な教会がありますけれども、こうゆう今度の夏期信行期間に、あのように熱烈な修業の御祈念があっておる所は、まずなかろうと思う位。しかもそんなら今、もう信行期間だから昼の修行だけにお参りしようとゆうのではなくてです、今言うように朝も参り、又修業にも参り、そしてそんなら会合がありゃ、又その会合にも出て来るとゆうような一生懸命、これはどうでもやはり厳しい信心修業だと頂くべきだと思います。そこにです、しかもそれをです、間違いなく行の上に表していくとゆう事が田中角栄とゆう事だと思います。それにもうひとつ自分とゆう者を検討しなければなりません。信心に私は一番大切な事は神様を信ずる、親先生に帰依する、言うなら取次者に帰依する。言うなら神様、取次者、皆さんとゆうものがです、この三つの木が合わなければいけないと。私は三木武夫とゆうのは、そうゆう事だと思いました。三つの木とゆう事は三つの心とゆう事。武夫とゆうのは、私は元気な心だと思います。
 そこでですね、これは、もう金光教の信心に限った事ではないでしょうねえ。仏教でも三帰依といったものがあります。教えに帰依する、お坊さんに帰依すると、何かそういったのがありますがね。お道の信心でもそうです。神様、そして取次者、そして皆さんと、この三つがね、三角のそうゆう関係がです、しかも真をもって結ばれるとゆう事なんです。そこにね例えば繁雄さんが胃が悪いのか、私が胃が悪いのか、どっちかが悪かったんでしょう。随分、それを例えば私と繁雄さんと半分ずつに割って下さったような感じがするのです。しかも私がほんに今あんたのお夢を頂っしょったつよと、ゆうところへ、そこへまっ暗い所へ、ホッと見たら繁雄さんがみえとる、とゆうようなですね、そうゆうこれは不思議ではない、そうゆう真がそうゆう関係に於いてです、通うんです神様へ。だから皆さんが神様を思うただけでもいけん、取次者を思うただけでもいけん。所謂取次者が拝めなければとゆうのは、そうゆう事じゃないでしょうか。神様は信じ申し上げておるけれども、取次者その人も、やはりそれこそ秋永先生じゃないけれども、親先生が言うて、それがよし、地獄道につながておっても、さらさらいとわんとゆうところ迄交わにゃいけん。言うなら親先生任せと、ここでは言われるが、そうゆう任せ切った心、その上神を信じておる。その上皆さんとしてはです、所謂田中角栄的な信心修業が出来るとゆう事。言うならばそこんところが段々完璧に出来ていくお繰り合わせをです、いよいよ。
 勿論真がなければとおっしゃる、真とゆうものは、そんなに簡単なものではない。もう限りがないのですから、それを例えば追求させて頂くとゆう事。
 今日は、新総理大臣の田中角栄さんと、それから私の好きな大臣であるところの三木武夫さんとゆう事から六十八節を頂きました。そして私共が、本当にそこに一生懸命、ひとつのところに命をかけるとゆう事。その辛抱こそ身に徳を受ける。そうゆう信心が本当に、例えば有り難い勿体ないとゆう時ばかりじゃない。もうしろしい、もう秋永先生なんか、今朝はもう目が痛かごとあったろうと思うです。ですから、もうそれはしるしいです。けれどもその辛抱こそ身に徳を受ける修行、しかもそれは本気で信心に一生懸命の命をかけておらなければ出来る事ではない。
 それを同時に、そんなら私と繁雄さんとの関係に於いてのお話をさせて頂きましたように神様と親先生と皆さんとゆうものがです、真をもってつながれるとゆう、そこからです、もう本当にびっくりするような、例えば私が痛うなれば繁雄さんの足が痛うなるてんなんてん不思議な働きが、そこから生まれてくる。ですからここんところの真を追求させて頂ながら、いよいよ田中角栄、それこそここではそれを信心の節度と申しております。きちっとしたおかげを頂きたいならば信心の節度を作りなさい。しだごだの信心じゃおかげもしだごだ。だから本当に一分一厘間違いのない神様の働きとゆうものを、ここでは皆さんに見てもらったり聞いてもらったりしておる訳ですけれども、そうゆうおかげを頂きたいならば、どうでも神参りをするに雨が降るから風が吹くからといった事でくじけるようなものではなくて、本当にひとつ田中角栄の信心で参りますならばね、それこそ間違いのない、言うなら一分一厘の間違いのない几帳面な真四角な栄えるおかげが約束されると思うのです。
 今日は一寸御理解が早いですけれども、今日私はまだ具合が悪いので御無礼しようと思いますから、これで失礼します。どうぞ。